昭和45年七月十八日 朝の御理解
御理解第五十八節 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
これは、信心をさせて頂く者のいわば、根性でしょう。信心の根性、いうなら信心の筋金といったようなものが入っておらねばいけんと思うのです。自分のやっておる事に自信を持つとか信念を持ってやる。いわゆる魂が入っておる、といったような事。自分の仕事なら仕事にかけておる。絶対の自信を持っている。
私、先日東京へ参りました時に、双葉さんに寄らせてもらった時に、あちらの若大将(まもるさん)が魚をさばいておりますところをちょっとの時間でしたが見せてもらったのですが、「素晴らしいなぁ、魂が入っておるなぁ」というのを感じたんです。大体がおとなしい方なんですけれども、ことお寿司を作るとか魚をさばくとかいうような事に関してだけは、もう誰が何と云うてもそばに寄りつかれない位な烈しさといったようなものを、仕事ぶりの中から感じましたね。
私は信心でもですよ、お互いせっかく信心をさせて頂いて、しかも十年も二十年も信心を頂いておるのですから、こと信心の事に限っては、それこそ人が寄りつけない位なです、烈しいと云うか、そういう魂が入った信心でなからなきゃ駄目。それを私は、根性だと思う。
あのおとなしい人が、こと信心の事になったら、それこそ云うてのかすと云うか、やってのかすというか、それは言い訳をするとかそういう訳じゃないですよね。けども、いつも本当の事をですね、例えばお話ひとつでも真に迫ると云うか、なる程と合点しなければおられないようなものが、お互いの信心の中に育っていかなければならない。それが私は根性になってくると思う。信心の根性。それにはね、どういう事になってこなければならないかと云うと、ここでは、人が盗人じゃと云うても、乞食じゃと云うても腹を立ててはならんと、その腹を立てんという事がね、根性がなからな出来んのです。根性がなからなきゃ「俺がいつ泥棒したか、俺がいつ乞食したか」と必ず云うのです。けれども、只今申しますように、信心の根性が筋金に入っておりますとです、これはもう馬鹿と阿呆になっときゃいいなんていうやさしいもんで無くてです、もう根性です、いうなら何にも分からない人達が云うておる事だと。ですからそれを只聞き流しておくとか、こらえておくといったようなものではなくて、もっともっと何か力強い思い方。それからというて、その「今に見ておれ」というような根性でもないですけれどもね。いわゆる有り難いものが心いっぱいみなぎるような感じですねえ。
「神が見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」しっかり信心の帯をするという事は、根性の事だと思います。そこでね、私共が例えば信心をしておってもですね、そういう意味での根性の全然ない人がある。いわゆる魂が入ってない信心をしている人がたくさんある。それがですね、例えて申しますと、今の寿司屋さんの話じゃないけれども「これは自分の命だ、これで食べていかんならん」といったようなものがですね、自然に稽古の中に表れて、いよいよ仕事の時にそのような風に表れてくる。とにかく普通の者は寄りつけない。もう素人なんかが言葉をはさむ隙が無い、といったようなものなんです。そういうものが信心の上にも表れてこなけりゃいけない。それにはやはり信心が私の命だというところまで、信心が自分のものにならなければいけない。只、おかげを頂かねばならんからと、お頼みせんならんお願いせんならん時だけの神様、といったようなものではなくて、もう信心そのものがいわゆる命なんだ。そこまでの信心を頂いて鋳る人が本当に少ないです。ですからやはり、私がもう十何年も前の事だったでしょうか、正月に親教会にお礼に出らして頂く途中、袴がさけてしまったんです。それで原さんの所に寄らせて頂いてから、「ちょっと済いませんけれども、ここを縫うて下さい」と云うたんです。私が脱ごうとしたら、「いや、脱がんでもいいです」と原さんが云われて、原さんが袴を縫われた時の事を、私は今でも忘れません。それはもう何と云うですか、仕事にかかられる時の気迫といったものを感じましたですねえ。まず第一に、あの糸をパチッといわせられた時から、ハッと思うたです。そして、履いたままの袴をサーッともうそれこそアッという間に縫われる。皆さんも御承知のように、性質は大変おとなしい方ですけれども、こと仕事になったら、もうそれは仕立屋さんですから、それが命なんだ。その事だけには、もう命がけでの、例えば稽古が出来ておる。とても素人なんかの横から入れる隙があるもんじゃない。いわゆる小西さんのお寿司を作られる姿に触れた時に、それを私は思うた。
例えば、そんならお百姓をなさる方がです、本当にこと百姓の事に限ったら、こと鎌を握り鍬を握ったらです、別人のように私は、なれれるようなです、人でなからなければ、それは本当に百姓を自分の命だとしておる人ではないと思うのですね。
私は、今日は皆さんにしっかり信心の帯をせよという事をね、そういう事だと思うのです。こと信心に限ったら、いったん御神前に向こうたら別人のようにある。そういう中にです、例えば人が馬鹿と云おうが阿呆と云おうが、いや乞食じゃ泥棒じゃと云うたところでです、全然問題にはならない位なもの。「私がいつ泥棒したの?」といったような事ではね、まぁだまぁだ信心に筋金が入ってない証拠。信心は自分の命とも頂いてない証拠なんです。信心を頂くという事はどういう事かというと、神様を信ずるという事なのです。人間の力には限りがある、神様の働きには限りがない。いわゆる神力無限である。その神力無限を信じておるから、人間の知恵の限界でです、それがとやこう云われたり致しましても人間が云うておる事なんだから、人間がしておる事なんだから、こちらは神様が相手なんだから、とそういう事になりますでしょう。限りのない力と働きを表して下さる神様を頂いておるのですから、限りのあるいわば人力です、人間の知恵、力をもって云うたりしたりしておる事は、全然問題ではない。いわゆる神様だけが御承知の世界に生きぬくと、私が申しますね。「云うとかにゃ癖になる」といったような考え方は、実に甘い信心の筋金の入ってない証拠です。しっかり信心の帯をせよ、と。これは、私は信心の根性だと思う、という風に申しました。
昨日の一時の御祈念の後に頂きます御理解に、今度、善導寺の親先生が御本部に御参拝になって金光様の御理解が丁度、ある方にあっておるところであった。自分も側で御祈念をしながら頂かれたというお言葉の中に「有り難う、有り難う受けていかなければ、物毎が成就致しません」とおっしゃるお言葉が本当に有り難かったと、お説教の中でお話をされました。「有り難う、有り難う受けていかなければ物毎が成就致しません、この方の道は喜び開けた道だから、喜びでは苦労はさせん」と「喜ばにゃ、喜ばにゃ」と、そういう意味では、もうあらゆる角度からここでも頂いて参りましたけれども、そのお言葉の中に何か初めて触れたか、初めて頂いた自分が有り難い、有り難いと云うておる事を検討し直さなければならんなという事を、自分自身感じました。ですから、昨日はそれを大晦日の心とか元日の心とは、そういう心ではなかろうかという風に表現致しております。
例えば今日の御理解からそれを頂きますとですね、私はしっかり信心の帯をするという事は、しっかりその事がですね、信心の根性を持って、もうどんな事でもです、喜びに喜んで受けて行くぞというですね、いわゆる根性がなからなければ喜べる事は喜べるけれども、喜べん事は喜ばん、不平を云う不足を云う。根性がなからなきゃ出来る事じゃないでしょうが。けれども、昨日の御理解頂いておりますとです、ここにひとつ本気で根性出さなきゃおられんなと、いつも頂く事ですけれども、又新たな気持ちでそれを頂かしてもらう。「物毎成就致しません」という最後のそれがきいておるような気がする。お互いがやはり御祈念成就の事で思うております。どうでもおかげ頂かんならん。それが成就しないとこう云われる。それは勿論、ここのところでの成就しないという事は、不平を云よっても不足を云よっても、そげん喜ばんでもおかげを受け取りますよね、みんなが。けれどもね、本当のおかげが成就してこんという事なんです。いうなら神様が下さろうとしておるようなおかげが成就しないという事なんです。「有り難う、有り難う受けていかなければ、物毎が成就致しません」これは、もうひとつのね、もう本当に根性がいる事です。根性なしには出来ない。
昨夜の御祈念に、熊谷さんがお参りされてから「先生、一時の御祈念の時にあの事を頂いてから、本当に今まで有り難い、有り難いで受けていかんならん事はよく聞いてもおりましたし、けれども昨日のあの御教えを頂きましてから、昨日の昼からいうなら夕方まで、もうそれこそ本気でその事に取り組ませて頂きましたら、もうそれこそ嬉しゅうなって、それこそ有り難うなって神様にお礼を申し上げねばおられない」本当に取り組むという事は、そのように嬉しい事なんです。 それをたどると、やはり熊谷さんの根性だと思う。信心の根性だと思います。どうでも、この事を自分のものにしよう、この事を本気で行じさせて頂こう、と本当に一心発起させてもろうて、その事に取り組まして頂くというだけでです、嬉しゅうなってくる。信心というものはね、私は教えを行ずる事が嬉しゅうなってくるところまで徹底した行じ方をいなければ、いわば値打ちがないと思うですねえ。「なかなかほんなこて、よか事云いなさる」とか「本当、よかお話じゃった」という程度の事ではいけん。それがやはり根性でさばかれていかなければいけない。それがです、しっかり信心の帯がその都度に出来ていかなければ、いっぺん締めとったけんでそれでいいという事はなか、締め替え締め替えしていかねばいけん。そして根性を持ってその事に立ち向かわして頂く時です、その後がね、嬉しいもの、有り難いもの。そこにはですね、馬鹿と阿呆にならんならんといったような、グーグー云うようなものがひとつもない。「どうせ私が馬鹿になっときゃええけんで」というもんとは違う。信心の根性を持って、そこを頂かせてもらう時です、その事はそれが出来てのかされるところへです、嬉しゅうなり有り難うなってくる。ほんに信心のなかった、信心の薄かった時ならどうじゃったじゃろうか。信心を頂くようになって神力無限、神様の無限力を分からして頂くようにならして頂いたら、これが平気どころか有り難うなってくる。という事にですね、お互いの信心が進んでいかにゃいかん。
私は、今朝からお夢を頂いた事の中に、不思議で不思議でたまらんお夢を頂いた。こんな事があろうはずがない、まぁだ考えがつかない。今朝からお夢を頂いておるのですよ。そのお夢が、誰かの所へ忍び込んでいる、という訳です。相手の人の顔は見えんけれども、やすんじゃるごたる模様。そこにおりますのが秋永先生をはじめ、高橋さん、正義さん、文男さん、まぁ菊栄会の方達だったろう、後はよく覚えません。十人位、私より先に押し入っとるという感じ。そして寝ておる病人さんじゃろうと思うのですが、それをもう何か大変いじめておる訳です。「そういういじめ方をするなら、そげな一言を云うなら、云うただけでんこの人は死んでしまわっしゃれんじゃろうか」といったような感じなんです。そして「あそこに、この人にお見舞いを持って来とろうが、あれを持って来んの」と誰かが云よりましたけん、高橋さんが持って来よんなさる。そしたら、それはメロンでした。ところがそのメロンをですね、何か漆か何かで真っ黒に塗ったごたるとに、目の玉をギョロギョロするのを書いちゃりますもん。「こげなもんをお見舞いにやるなら、もうこの人は見てからいっぺんに気絶さっしゃるじゃろう」というところでした。もう私はそれを見て怖くなりましてね、もう私はこっそりと戸を開けてから、それから逃げ出すようにして逃げ出したら、「先生が行ったけんでみんな帰ろうか」というごたる風で出て来よるような感じでした。ところが、その後がですね、もう夜中じゃったけれども、野菜出しか何かに行きござるお百姓さんが、そこを通りなさる。それをほんに見つけられんように木の陰にかくれとるのが、月の夜ですから、隠れ所が無いといったような所。そして向こうの方に私共が乗って来とる自動車がありますもん、その自動車にはナンバーがあるから、あのナンバーどん見られとるならこれはもう逃げおおせは出来んがと、思うて心配しとるところで目がさめた。 私は今朝からこの御理解頂いて、本当に今私が申しました、合楽の秋永先生をはじめ、菊栄会の人達ですからとても泥棒どんする人達じゃないし、乞食どんする人達じゃないです。これはもう私をはじめですから。ところがですね、そういう念のいったお芝居というか、人のものを盗んでおるといった訳ではないですけれどもですね、もうそれがえげつない事を云うて、腹の中でこしよるといった感じ、その病人を。そげな事を云うならとても、もうその場で死なっしゃろうというごたる事を云うたり、したりしている。ですから、私共、今朝のここのところを頂いてです、泥棒じゃと云われても、乞食じゃと云われてもという事なんですけれども、信心しておる者の信心者としてです、そういう事は、本当にあってはいないようであるけれどもです、私は本当にもっともっと深い見方。乞食と云われりゃ、本当に乞食のような根性が、私の腹の中にあるのではなかろうか。なる程、泥棒はせんけれども、泥棒したと同じような泥棒の根性が私の心の中に巣喰ってはいないだろうか、と本気で思うてみなければいけない。そしてですね、それを自分の心の中に発見したらです、もう逃げ場の無いような自分を感じなければいけない。これでは、いつ捕まえられるか分からん、といったような戦々恐々といったような気持ちがです、出来る位になからなければいけない。そこから本気での改まりも出来るんだという風にも感じました。これは今日、私が申しました事を、もういっちょ深めてからの考え方だと、こう思います。 なる程、泥棒と云われりゃ云われるようなものが内容にある。乞食と云われりゃ乞食のような根性が心の中にある。云われりゃ云われる、その通りだと自分の心の中に思うてみる。そういういわば、この御教えからは頂かしてもらうという事とです、只今、私が申して参りました、信心の根性です。それをここでは「しっかり信心の帯をせよ」と、こう云うて下さる、その「しっかり信心の帯をする」というところからです、例えば、昨日の御理解を頂きますとです、金光様のお言葉であるところの、「有り難う、有り難う受けていかなければ物毎が成就致しません。今日からは、もう金輪際不平は云わんぞ不足は云わんぞ。どういう事でも、有り難う有り難う受けていかなければ、神様の本当の私にかけられる願いが成就しないのだ」と分からして頂いたらね、そこにひとつ根性を出さねばならんところじゃなかろうか。しかも、その根性を出してです、それを本気で行ずる気にならして頂いたら、熊谷さんじゃないですけれども、嬉しゅうて嬉しゅうてという答えが出てくると思うのです。その事に今日、取り組まして頂いたら、有り難うて、有り難うてという答えが出てくる。それがね、私は信心者の根性だと思いますね。どうぞ。